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ふたりごと文庫 みんなの「”あの人”に知ってほしい!」をつなぐオンラインマガジン

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2017年06月23日

空想登山

書き手の強い希望により、写真一切「なし」でお送りいたします!

室堂のバスターミナルを出ると、少々肌寒かった。まだ8月だというのに、山の風はすでに秋の気配を含んでいる。国土地理院の2万5千分の1の地形図上ではターミナルの標高は2432mだから、都心と比べて約12度ほど気温が低くなる計算だが、実際にはそれ以上に季節が進んでいるように感じられた。

あいにくの天気で、いつもは正面に雄大に見えているはずの立山はガスの中だ。夏休みの最後の週末を思い思いに楽しむハイカーたちを横目に、私は雷鳥坂の登山道を駆け上がった。2750m付近の剱御前小舎に着く頃にはようよう晴れるかと思われたが、手元の地図上では間違いなく見えているはずの剱岳本峰はやはり雲に隠れて拝むことはできない。いくらか落胆したものの、翌日の晴れの予報を信じながら、今夜の宿営地、剱沢のテント場へと急いだ。

テントを張り終えリラックスした私は、しばし卓上の地図から目を離して、台所の冷蔵庫から冷えたビールを一本取り出し、お気に入りのグラスに注いだ。何かつまみはと戸棚を覗き込む。そうだ、私は今東京のマンションの一室にいるのだった。ビールを片手に地図を開いて、空想の山行へと出かける。この密やかな悦びを知って久しい。これまで幾度となく訪れた北アルプスだが、今回は剱岳に登ろう。2017年8月27日。ちょうど2ヶ月後の未来の話である。私はアイゼンとピッケルを担いで、クラシカルルートの長次郎谷に向かうことにした。

夜明け前テントから顔を出すと、月明かりの向こう側、ぼうと黒い山塊がほの見えた。野営地から見てやや東よりの北側に位置するその影が剱岳本峰であることは地図が雄弁に語っている。熱い茶を啜ったらいよいよ出発だ。

今年は雪が多く、雪渓が大きい。早めにアイゼンを履いての雪上歩行となる。まずは一気に標高を下げて長次郎谷の出会を目指す。2070m付近、上部が顕著なカール地形(下部からはよく見えない)の平蔵谷と出会う。薄暗がりの剱沢から仰ぎ見るこの谷はぞっとする恐ろしさがある。源次郎尾根の黒く大きい岩稜があたかも巨大生物の化石のように覆いかぶさっている。

私はさらに歩を進め、いよいよ長次郎の出会に差し掛かった。ここからさらに下部の1749m地点には真砂沢ロッジがあるはずだが、長次郎谷の出会からかろうじて屋根が見えるだろうか。八ツ峰から派生したこんもりとした尾根に阻まれて見えづらい。この辺りは実際に行ってみないとわからないところだ。ここでは見えたと言っておこう。行動食のビスケットをひとかけらかじったら、いよいよピッケルを片手に1950mから2870mの長次郎のコルまで標高差950m、気の抜けない雪渓登行である。なるほど地図で見る通り、下部は暗く狭い。雪は固く締まっている。地形図に青い点々で表示されている記号は万年雪だ。巨大な岩稜に挟まれて日照がじゅうぶんに届きにくいこの地形が融雪を妨げているのは地図を見れば明白だ。2300m付近、右手にやや大きな岩壁をのぞむ辺り、次第に沢床の傾斜は緩やかになってきた。

空は随分と明るくなった。八ツ峰のギザギザに朝日が差し始めている。左側の大きく垂直に落ちる岩壁は源次郎Ⅱ峰であろうか。残念ながら国土地理院の地形図には記載がないが、たしか源次郎尾根からダイレクトに剱岳本峰にアタックするクライマーたちが懸垂下降する場所だとものの本で読んだ。なるほど、よくよく聞いてみると恐れを知らぬクライマーたちのコールがこだましているではないか!

昭文社の山と高原地図には「熊の岩」と記されている地点がある。今回私が登っている国土地理院地形図では2600m付近にごく小さな岩の記号が見られるので、これがそれにちがいない。ここまでくると目指すコルに向けて長次郎谷左俣の傾斜はぐっと増し、ピッケルを握る手に力が入る。雪が多いシーズンとはいえ、この季節の雪渓上部はクレバスだらけで、回り込んだり乗り越えたりと思った以上に手こずらされる。額を流れる汗をぬぐい最後の一歩を上がると、眼前に黒々と広がる黒部の山並みと、遠く空と溶け合うように日本海が一望できた。長次郎のコルである。アイゼンを外してザックを降ろし、近くの岩に腰を下ろして水筒を一煽り。快晴の空に一筋の雲。左手には剱岳本峰へと続く岩稜。さて大休止を終えたらいよいよ登頂だ。足元には何やら可憐な花が風に揺れているが、あいにく私は花に詳しくはない。

おもむろに地図から顔を上げると、窓から見おろす街はすでに薄暗く、かなりの時が過ぎていたことを知る。一杯飲み直すべく、私はいつもの店へと繰り出した。薄紫色に染まる神楽坂を意気揚々と駆けおりる。週末のこの時間はちょっと一杯ひっかけようという人たちで賑やかだ。冒険を終えた私は、ほどよい疲労感に心身の充実を感じながら、誇らしげに歩いた。すると毘沙門天前の小道から一陣の風。にわかに気が遠くなり、私はアイゼンを踏みしめるザッザッザッという音を聞いた気がしたが、これは空耳に相違ない。

※この記事は登山家さんの「空想」に基づくものであり、実際の登山記録ではありません。これを頼りに登山を行わないでください。

tozanka_pro

名前:登山家
職種:映像ディレクター
出身:三重県

猿酒を もとめ来たりて 絵空旅 ー登山家ー

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