みんなの「”あの人”に知ってほしい!」をつなぐオンラインマガジン
2018年02月08日
“地球に生きる”ってこういうこと。島に移住して1年経って思うこと。
こんにちは。田中良洋です。
ぼくは今、鹿児島県の奄美大島に住んでいます。
出身地は兵庫県でしたが、2017年1月に島へ移住し、
今ちょうど1年が経ちました。
30歳のときに奄美大島への移住を決意したのですが、
ぼくがなぜ島への移住を決めたのか、
そして1年経って感じることをお話したいと思います。
やりたいことを仕事にしようと思っていた
生まれは兵庫県。大学卒業までずっと兵庫県に住んでいました。
就職を機に東京に引っ越し、ひとり暮らしを始めました。
就職先はITのベンチャー企業で1年目から終電帰りの日々が続きます。
ITに興味があったわけではなく、いずれは独立したいと考えていたので
独立志向の人が多い会社を選びました。
3年8ヶ月勤めたのち、独立を決意し会社を辞めました。
個人事業主として結婚式のイベントや映像編集を仕事とにしていましたが、
なかなか食べれるようにはならず、クレジットや水道代の支払いに追われる日々……
バイトをし、知り合いの人の助けを得ながらなんとか食いつないでいました。
やっと個人の収入だけでも生活ができるようになったころ、
家庭の都合で拠点を大阪に移しました。
新たな場所で気持ちも新たにスタートしようと思った時、
突然目の病気を患ったのです。
病名は「急性前部ぶどう膜炎」
眼科で有名な病院に行って血液検査を行いましたが原因は分からずじまい。
「ストレスじゃない?」と言われるだけでした。
幸い今は症状は治まり見えるようになりましたが、
当時は左眼がカーテンがかかったように視界が白く濁り、
目は腫れて頭痛が止まらず、スマホを見るのも辛い状態でした。
何もすることはできず、ご飯を食べては寝るだけの生活が続きました。
「好きなことを仕事にしたいと思っていたのに、
いつのまにかこんなにも身体に負担がかかっていたんだ……」
することがないベッドの上で改めて自分のことを見つめ直しました。
自分のやりたいことは何だろう。
仕事とは何か。
お金とは、社会とは。
自分にとっての幸せとは……
いつ身体が動かなくなるかも分からない、いつ死ぬかも分からない。
ぼくが今、やりたいことは何だろう。そこで出てきた答えが
「島に住みたい。」
でした。
2ヶ月島に住んでみて……
もともと将来は南の島でゲストハウスがしたいと思っていました。
離島も好きで、沖縄の慶良間諸島や石垣島周辺の離島はほぼ行ったことがありました。
中高時代の部活はワンダーフォーゲルで山登りをしていたので、自然のある環境が好きでした。
やりたいのは島に”行く”のではなく、島に”住む”こと。
ただ島に旅行に行くのではなく島で”生活”がしてみたいと思っていました。
そんな時に偶然、島おこしインターンシップ「島キャン」というプログラムを見つけました。
もともと大学生向けのプログラムでしたが社会人でも参加可能とあったので、
10歳くらい歳の違う子たちと一緒にインターンシップに参加しました。
訪れた島は鹿児島県の最南端の与論島。
島のイベントをお手伝いし、たくさんの島の人と知り合いになりました。
一緒にお酒を飲み、漁に行き、サトウキビ刈りをする中で島の人々の生活に触れ、
都会とは違って自然の中で生きる島の人たちのかっこ良さを知りました。
車の通りがなく、信号もないサトウキビに囲まれた道を自転車で走り、
虫の声と波の音しか聞こえず、見上げると満点の星空が広がっています。
思わず大声で歌ってしまいました。そして思ったのです。
「あぁ、自分の求めていた自由はこういうことだったんだ。」
都会にいると生活するだけでも精一杯です。
生きることが大変で、狭い場所にたくさんの人がいる。
まるで満員電車の中にいるようで、それでも自分の存在をアピールしたいから
必死で手を伸ばす。そんな息苦しさを感じていました。
この社会は人々が豊かに暮らすためにできたもののはずなのに、
みんな社会のシステムに疲弊して、いつの間にか生きることは大変で、
甘くなくて、辛く厳しいものになってしまっている。
本当は生きることは素晴らしく、世界はなにも束縛していなくて自由なものなのに。
島で生活する中でも大変なことはもちろんあります。
自然は時として人間の脅威となり、台風で一瞬にして家が吹き飛んでしまうことだってあります。
でも、島の人たちはそれを受け入れて、いかに自然と共に生きていくかを考えていました。
2ヶ月間島で生活してみて、それまで自分が思っていた当たり前は
当たり前ではないことに気づき、求めている幸せの形が分かったような気がしました。
ご縁があって奄美大島に移住しました
与論島から帰ってきて、新しい夢ができました。
「島に関わる仕事がしたい。」
数ある島の中でも奄美群島に関わりたいと思っていました。
与論島で生活している時、奄美群島の多様な文化や歴史に興味を持ったからです。
ぼくが島について知ったことをブログで発信していくことから始めていこうと思っていました。
すると、たまたま島キャンを運営している会社が奄美大島で予備校を始め、
人が足りていないので来て欲しいとお誘いがありました。もちろん即答。
「行きます!」
島に行くことを誰もが応援してくれるわけではありませんでした。
親とは夜遅くまで話して自分の思いを伝えましたし、
今までの自分を応援してくれた人からは「結局、お前は中途半端だ」と言われもしました。
言われたことは全てもっともなことでした。そう感じるのは分かる。
でも、結局決めるのは自分だし、大切なのはいかに自分が幸せに生きられるかだと
思っていたので島に行く気持ちは変わりませんでした。
そして2017年1月、奄美大島に移住しました。
島に1年間住んでみて思うこと
今、これを書いているのが2018年1月です。
ちょうど島に移住して1年が経ちました。
島の生活は、思っていたのと違うこともたくさんありました。
生活には特に困りません。ぼくが住んでいるのは
奄美大島の中でも都心の名瀬という町です。
コンビニもあればイオンもヤマダ電機もある。
Amazonも3、4日で届くので生活に困ることはありません。
ですが、家賃は安くなく、物価も輸送費があるので
特に安いわけでもないので生活コストはあまり変わりません。
目の前には港がありますが、思っていたほどの島の暮らしではないです。
とはいえ、ぼくはこれで良かったと思っています。
島に暮らしてみて分かったことは、小さい集落になればなるほど、
その集落の決まりやコミュニティ、文化があります。
知らずに集落に住んでいたら、島暮らしが嫌になっていたかもしれません。
まずは住みやすい都心に住んで、
徐々に島の人との関係性を築いたうえで
別の場所に引っ越すのもいいかな、と思っています。
そして、島は人手が足りていません。
よく、島や地方には仕事がないと言われます。
確かに都会のように、ひとつの仕事に就いて生活するだけの十分な給料をもらい、
将来も安定した仕事に就こうと思うと、なかなか仕事が決まりません。
でも、どこも人手が足りていません。
特に奄美大島は国立公園になり、LCCの直通便が出て観光客が増えています。
ホテルや飲食店はどこも人が欲しいと言っています。
つまり、仕事がないわけではないのです。
ぼくは今、予備校のスタッフをしながら個人事業主としても
ライティングやカメラ、映像制作の仕事も受けています。
人の繋がりからいろんなことをお願いされて、
この1年だけでいろんな仕事をさせてもらいました。
ドローン撮影、結婚式の映像制作、料理のカメラ撮影、家庭教師、
セミナーのスタッフ、結婚式の設営、観光メディアの記事制作、SEOライティング……
都会は狭い場所にたくさんの人がいて、まるで満員電車のようだと言いました。
島は広い場所に人が少ないので、一人当たりの範囲が広いです。
狭い分野のスペシャリストよりも、
広い範囲のことができるジェネラリストが求められているような気がします。
いろんなことをやりたがりなぼくにとって、島の環境は合っていたようです。
南の島は台風の被害があると言われます。
確かにぼくも大きな台風を2度経験しました。
東京や大阪に比べて勢力は強いし、台風の影響が出る期間も長いです。
台風が去った後でもコンビニの棚の食べ物がほとんどなくなっているのを見て、
島の台風はやっぱり違うと感じました。
島の人たちは台風の被害があってもたくましく生きています。
自然の影響は都会よりも受けますが、それを受け入れて生きていく知恵が島の人にはあります。
満潮と干潮、大潮の時期を把握し、自然や海と共に生きています。
島の人の生活を見ていると、「地球に生きるってこういうことなんだ。」と気付かされます。
時に自然の脅威にさらされながらも、自然を守り、
自然からの恩恵を受けながら生きていく。
本来の人間らしい生活があり、
これからの時代の最先端となる生き方があるように思います。
まだまだ島には新しい発見があります。
人間が地球の中で、自然の中で生きるとはどういうことなのか。
これから先、経済的な豊かさだけでなく、
地球全体が豊かになる生き方をするにはどうすればいいのか。
そんなことを考えながら、まだしばらくは島暮らしを満喫したいと思います。
もし、記事を読んで奄美大島に興味を持った人がいたらご連絡ください。
ご案内しますよ!
名前:田中良洋
職種:フリーランス
出身:兵庫県30歳にして奄美大島に移住しました。離島に移住して感じたことをブログで発信しています。ご覧ください。
離島ぐらし(http://rito-life.com/)