みんなの「”あの人”に知ってほしい!」をつなぐオンラインマガジン
2018年06月22日
第一弾:灯台もと暮らしを通して伝えたい想い
皆さん、こんにちは。「ふたりごと文庫編集長」の浅野有希です。
今回は私がどうしてもお会いしたかった憧れの女性、
ウェブメディア「灯台もと暮らし」の創刊編集長である伊佐知美さんにお会いし、インタビューをしてきました。
とても素敵なお話を伺えたので、全3回に渡ってお届けします!
第1回目のテーマは、「灯台もと暮らしを通して伝えたい想い」です。
金融業界、出版業界を経て、「灯台もと暮らし」の編集長になった伊佐さん。
その他にも、書籍『移住女子』の出版やメディア連載など、フリーライターの活動もしています。
また、世界一周しながらライティングをするリモートワークスタイルをnoteで発信することで、一躍注目を集めました。
そんな伊佐さんが「灯台もと暮らし」を通して変わったご自身の価値観、そして、たくさんの人に伝えたい“想い”に迫ります。
灯台もと暮らしの誕生秘話と、特集のつくり方も必見です!
「はじまり」をみんなと一緒に過ごしたい
27歳の頃、まだ出版社で働いていたのですが、ツイッターで「MATCHA(まっちゃ)」というウェブサイトのライター募集を見つけ、
採用してもらったことが、私がウェブライターを始めたきっかけでした。
最初は1本あたりの記事の単価は、500円。
でも、記事を書けることが本当に楽しかったので、報酬なんてどうでもよかった。
とにかく「ライター」という肩書が欲しかったのです。
それからは「MATCHA」で書いた実績を持って、どんどん違うメディアに応募していったのですが、
1記事500円から始まり、半年後には約40倍の1~2万円にまですることができた。これは本当、嬉しかった。
実は、当時の「MATCHA」編集長が、今のWasei代表・鳥井(弘文)なんです。
その出会いから約1年後に、私はWaseiへ入社することになるのですが、そこに至るまでにはそれなりの葛藤もありました。
「文章を書いて生きていきたい」という夢を持っていた一方で、
「世界一周をしてみたい!」という強い想いもあったんです。
村上春樹さんの「遠い太鼓」という本にあるような、世界を旅しながら原稿を日本に送る生活に憧れを持っていたのです。
1ヶ月、20日働くとして、1記事1万円をいただければ、20万円。
最低限初任給くらい稼げたら、生きていけるかなと考えました。
当時勤めていた出版社は好きだったけど、夢だった世界へいこう! と思うようになりました。
ただ、そう決心したときと、鳥井に「うちの会社で、何か一緒にやりませんか?」って言ってもらったタイミングが同じだったのです……。
同じくWaseiで一緒にやろう、と話していた「MATCHA」の編集メンバーのうち2人は大学生だったので、間もなく社会人になる時期でした。
だから、みんなでいっせいにスタートを切れる状況ではあって……。
それに魅力を感じたので、世界一周へ行くという夢は、一旦延期することにしたのです。
だって、途中から鳥井たちの仲間に加わることはいつでもできるけど、“はじまり”を見られる瞬間って、そのときしかないじゃないですか。
今だから分かるのですが、私は1から10にするんじゃなくて、0から1を生み出したいって思う人間みたいで。
だから、その貴重な瞬間をみんなと一緒に味わえるなら、世界一周よりも会社に入ることを選びたいなって思ったんでしょうね。
まぁ何よりも、メンバーたちが大好きだったんですよね。
こうして私は、Waseiの社員になることに。
「灯台もと暮らし」の誕生
入社はしたけど、実はそのとき、具体的に何をやるかは決まっていませんでした。
決まっていたのは、この4人で何かをやろう! ただそれだけ。
4人の共通点は、「ウェブ関連に携わってきたこと」だったので、だからまずはウェブメディアを始めてみようということになりました。
何をするにしても発信の場は必要ですしね。
では、どんなメディアを作ろうか?
そのときまだ私は前職の仕事があったし、ほかのメンバーは大学生でした。
全員で集まって話し合う時間がなかなか取れなかったので、2泊3日で合宿をすることにしました。
朝から晩まで、お互いに何を思っているか?どう生きていきたいか?
千葉県の房総の貸別荘で、そんなことを真剣に話し合いました。ちなみにここは今でも、大切な時に訪れたりしています。
その合宿を通して見えてきたメンバーの共通項が、「古い文化」「古いと新しいをつなぐ」「想いに寄り添う」というものでした。
そのとき、「あっ、これって、灯台下暗しじゃない?」って言い合った瞬間があって。
たまたま貸別荘の名前も「ル・ファーレ」で、フランス語の「灯台」。
そう、これが「灯台もと暮らし」の誕生のきっかけでした。
「これからの暮らしを考える」。
そのテーマを必死に追い続けてきた「灯台もと暮らし」も、2018年の1月で丸4年を迎えました。あっという間の4年でしたね。
人の縁を通じて、その人が見た世界を描く
特に最初の頃は、「人の縁」を丁寧に広げていくことを大切にしてきました。
小さな町になればなるほど、ぽっと行くくらいじゃ誰も何も話してくれないし、大切な話も聞けないんですよね。
だから当時も今も、ご縁を大切にして、“その人が見た世界を描く”っていうメディアの作り方をしています。
例えば、最初に徳島県神山町の特集を組んだ時。
鳥井が、神山町でゲストハウス作りに大工として関わっていらっしゃる堤さんという男性とご縁があって。
当時神山町はインターネット環境がとても充実した地域であることが人気で、サテライトオフィス誘致が進んでおり、
「豊かな自然環境の中でMacBookを操作する」という絵がテレビや雑誌でよく取り上げられていた時期でした。
そして、灯台もと暮らしを立ち上げると聞いた堤さんが、「面白いよ!」と私たちを呼んでくれたのです。
でも、私たちは暮らしている人のリアルな様子が知りたいと思ったので、
サテライトオフィスという切り口で神山町を取材させていただくのではなくて、
そこで住んでいる方々の想いを聞かせていただくことに決めました。
そして出来上がったのが、今もほかの地域で続いている、「灯台もと暮らしの地域特集」の原型でした。
実は私、地域にもともと強い興味を持っていたわけではないんです。
なぜなら、私自身が新潟の田舎出身で、都会に憧れて東京に出てきた身だったから。
でも、取材を通じてたくさんの人に出会っていく中で価値観が変わりました。
私は取材の最後に、今後何をしたいですか? と聞くことが多いんですよね。
自分のことを話すとき、私は当然、「私は」という自分が中心の主語を使います。
でも、地方に住む人たちは、話をするうちにいつのまにか主語が「私たち」に変わっていく……。夢の主体が、IからWEに変わるんですよ。
それってすごいことじゃないですか?私はそれを、「自分の未来と、地域の未来を重ねる」とよく呼ぶのですが、それができるのは、とても豊かな生き方だなぁと。
そういう人たちって、自分で生きる力を持っていると感じるんです。
大切なのは、相手が喜んでくれるかどうか
「取材をするときに、一番大切にしていることは何ですか?」ですか……?
いろいろとありすぎて絞ってお話をするのが難しいのですが、
あえてひとつに絞るとしたら、「取材をされた人自身がシェアしたくなる記事を書くこと」でしょうか。
灯台もと暮らしでは、取材させていただく方のプロジェクトに関して、深い想いの部分まで聴くことが多いのですが、
それってすごくパーソナルなことが混じる可能性が高いです。それってすごく難しい。
でも、だからこそ応援になるような、寄り添う記事が書けるかもしれないという期待もあります。
大切なのは、相手が喜んでくれるかどうか。
それって、灯台もと暮らしの編集方針においては、ページビュー数よりも、圧倒的に大事なことです。
バズって、多くの人が読んでくれたとしても、正確なところが伝わらなかったら全然意味がないかなって。
「あの人が出てたから読んだよ〜」とか、「あの人とあんまりしゃべったことないけど、
そんなこと考えて移住してきたのね…じゃあ、こんなこと頼んでみよう!」って、1本の記事がそんなふうに化学反応を起こしたりする。
「灯台もと暮らし」っていうメディアとしては、今のところは、そんな存在でいいのかなって。
【伊佐知美さんインタビュー】
『第二弾:「私はどうやって生きたいのか」に向き合って見つけた“夢の道”』
『第三弾:みんながもう少し、“納得感”を持って生きていける世界を』
名前:伊佐知美
職種:灯台もと暮らし創刊編集長
出身:新潟県これからの暮らしを考えるメディア「灯台もと暮らし」の創刊編集長。書籍『移住女子』の出版やメディア連載など、フリーライターとしての活動もしている。
Twitter https://twitter.com/tomomi_isa
Note https://note.mu/tomomisa